JAZZと汽笛とお爺ちゃん-2-

JAZZと汽笛とお爺ちゃん-2-

ヨコスカ

横須賀ジーンズ商会のルーツを探るシリーズの2回目。今回は、生涯プロのJAZZバンドマンだった石渡稔の祖父、鶴ケ谷嘉宏(本名・千年男)の軌跡と共に、日本のJAZZの歴史と当時のバンドマン達の功績を辿ります。

ラプソディインブルーとお爺ちゃんのJAZZ人生

アメリカを代表する芸術音楽の一つ、ガーシュイン作曲の「ラプソディインブルー」は、「JAZZの語法によるラプソディ(=狂詩曲)」とも云われます。この曲が発表されたのは1924年。狂騒の20年まっただ中、第一次大戦後のアメリカは、あらゆる分野において現代化が進み、奥底に残る大戦の恐怖への反動として、音楽やダンスといった人々の娯楽文化が花開きました。それまでマイノリティーの音楽に過ぎなかったJAZZが大流行し、人々はJAZZの軽快なリズムに文字通り狂喜乱舞していた時代でした。

クラリネットの気怠さを滲ませたセクシーなソロで始まる「ラプソディインブルー」は、流行りのJAZZに加え、多くの移民が新天地を求めてアメリカに渡った当時のアメリカを反映した混沌としていてエキゾチックで希望に満ちた空気漂う楽曲です。クラシック音楽でもあり、JAZZとも捉えられる、ジャンルを超えた画期的な形を提示しました。

クラリネットとサックスを吹くJAZZバンドマンだったお爺ちゃんは、その日の調子を確かめるように、仕事に出かける前に毎回欠かさず同じ曲を吹いていたそうです。その曲が、「ラプソディインブルー」でした。

新しい時代の到来を告げた「ラプソディインブルー」のメロディに、JAZZバンドマンとして華やかで夢とロマンに満ちながら、激動の時代を駆け抜けたお爺ちゃんの人生が絶妙に重なっているようでなりません。クラシカルなオーケストラの奏でる優雅さに絡まるようにクラリネットやピアノが奏でる自由で希望に満ちたJAZZらしい旋律とリズム。それは、生真面目で決して出しゃばらず上品さを常に持ち合わせながら、時代の先端で本場アメリカのJAZZを身体に染み込ませ、生涯プロのJAZZバンドマンとして生きたお爺ちゃんそのものです。この曲を吹くお爺ちゃんの姿を見たこともなければ、その音色を聞いたこともないけれど、冒頭のクラリネットのグリッサンドを耳にしただけで、お爺ちゃんの姿がありありと目に浮かびます。

東京で生き抜くために始まったお爺ちゃんのJAZZ

お爺ちゃんが故郷の青森を離れ、東京に出たのは「ラプソディインブルー」が初演された2年後の1926年、18歳の時でした。生活するため、生きるためにたまたま手に取り身につけたのがクラリネットとサックスでした。というのも、当時住み込みで楽器を習え、その上手当ももらえた「楽士養成所」に飛び込んだのです。初めての仕事は、サイレント映画(無声映画)の伴奏でした。程なくして、トーキー映画が日本でも席巻し、お爺ちゃんの仕事場は活動写真館(映画館)からダンスホールに代わりました。

日本のJAZZ創成期とダンスホール

1920年代から30年代にかけての日本の都市部(東京、大阪、横浜)では、ダンスホールが黄金時代にあり、軒並みダンスホールがオープンした時代でした。

日本で最初の同伴制大型ダンスホールである花月園(神奈川・鶴見)を始め、フロリダ(東京・赤坂溜池)、東横ダンスホール(神奈川・新丸子)、和泉橋(東京・神田)など、お爺ちゃんは東京近郊のダンスホールを股に掛けて演奏していました。

ダンスホールはバンドリーダーと契約をし、各リーダーがバンドマンを集め演奏し、人々を踊らせていました。バンドマン同士の横のつながりもあり、バンドに欠員が出ると声を掛け合い、バンドの穴を埋めることもあったそうです。

チャーリー菊川とブルーリズムボーイズ、奥田宗宏スインググループ(後のブルースカイオーケストラ)、七條バンド、磯部桂之助とスイングマスターズ、神月春光とコロニアンズ…。

多くのバンドを渡り歩いたお爺ちゃんでしたが、数度にわたりリードサックスとして在籍したのが奥田宗宏のバンドでした。当時流行った月刊誌「ダンスと音楽」(ダンス音楽社発行)の1938年1月号の巻頭カラーページで奥田宗宏とスインググループがカラー写真で紹介されるほど人気のあるバンドでした。因みに、奥田宗宏の次男である奥田英人率いるブルースカイオーケストラは現在、日本を代表するスイングバンドとして活躍しています。その、ブルースカイオーケストラを紹介するページに、かつての奥田宗宏バンド在籍中のお爺ちゃんの写真を見つけました!

ブルースカイオーケストラ前列右端がお爺ちゃん。

ブルースカイオーケストラ右から4人目のサックスがお爺ちゃん。

画像引用:ブルースカイオーケストラ紹介ページ より

船の楽団・ JAZZを運んだお爺ちゃん

当時のバンドマンにとっての憧れは、北米航路客船の「船の楽団」に入ることでした。大正から昭和初期(1910年代〜30年代)にかけての日本は、海外留学なんて高嶺の花、楽器はもとより、楽譜さえなかなか手に入らない時代でした。「船の楽団」第1号が初めて船に乗り込んだのは、1912年8月、かの有名な「タイタニック号」の沈没事故からたった4ヶ月後のことでした。東洋音楽学校(現東京音楽大学)の卒業生5人が、横浜出港のホノルル経由サンフランシスコ行き「地洋丸」に乗船し、3ヶ月の船旅の間、演奏の腕だけでなく、勇気と覚悟が試されたのでした。

1920年代後半になると、第一次世界大戦後の影響で北米路線の需要が高まり、サンフランシスコ航路は花形航路として重視されるようになります。より多くの船の楽団員が必要となったことを受け、音楽学校は船会社と契約を結び、卒業生はもちろん巷のダンスホールで活躍する評判のバンドマンたちを海上へと送り込みました。

選ばれし「船の楽団」のバンドマン達は、寄港先のサンフランシスコやロスアンジェルス、ホノルル、香港などで、オーケストラの演奏会やオペラ、バレエなどに積極的に出かけ、流行りの音楽や文化を吸収しました。また、楽譜や楽器、教本やレコードを入手し持ち帰る事も、バンドマン達にとって大事な仕事でした。

ロスアンジェルスの街並み当時のロスアンジェルスの街並み。キャプションには「地下鉄ステーション(ロス)」とある。

香港香港(クリックすると拡大します)

ロスアンジェルスにあったトーキー撮影スタジオVitaphone Picture Studioは、ロスアンジェルスにあったトーキー撮影スタジオ。右端で手を挙げているのがお爺ちゃん。

往路はセミクラシック、復路ではエキゾジックな流行りのダンス音楽から、アルゼンチンタンゴ、ラグタイムミュージック、トゥーステップやコミックオペラなど入手したての楽譜を演奏する事もしばしばあり、レパートリーは多岐に渡りました。

バンドの編成は船の上だけに限られていたため、原曲の編成がどうであれ、足りない部分はピアノやバイオリンで補うなどの編曲が必要となり、即興でアレンジが必要な場合も多くありました。また、乗船客のリクエストに応えるための幅広い知識と、楽譜を初見で弾くだけの読譜能力も求められました。輪をかけて求められたのが、3ヶ月に及ぶ航海に耐え尚且つその間演奏をし続けるだけの気力と体力でした。「船の楽団」はバンドマン達の憧れであり本場アメリカでJAZZを見聞することができる華やかな世界であったのと同時に、技術的・精神的・体力的に厳しい世界でもありました。

そうして西洋化まもない日本に、本場アメリカの流行りの音楽であったJAZZが楽器や文化と共に運ばれてきたのです。「船の楽団」の一員として北米航路の豪華客船に乗り込み、本場のJAZZを体に染み付け、逃げ場のない船上でその腕と感性を磨いたツワモノの中から、今日にも名を残す、数多くの日本のJAZZ創成期の立役者たちが誕生しました。

そして、お爺ちゃんもそのツワモノの一人でした。お爺ちゃんが「船の楽団」として初めて乗船したのは、1930年(昭和5年)7月30日に横浜港を出港した北米航路客船「春洋丸(しんようまる)」でした。全長約175メートル、1等から3等客室まであり、総定員888人の当時の客船としては最大級の豪華客船です。

春洋丸春洋丸春洋丸2年目の1931年7月30日横浜出港日。キャプションはお爺ちゃんお手書き。春洋丸2年目の1931年7月30日のもの。

春洋丸

黒地のタキシード(夏は白地の略装)を着て、入港時は行進曲(マーチ)を、出港時には「蛍の光(auld lang syne)」をデッキで演奏し旅情を演出しました。残された「春洋丸」の演奏プログラムには、49のプログラムが記されており、1プログラムに付き5曲の構成。単純計算しても250曲。これにリクエスト曲も加わるのだから、膨大な数のレパートリーです。

お爺ちゃんはその後1932年4月まで「春洋丸」に乗船し、翌年8月から1934年9月までは「龍田丸」に、1935年9月からは「秩父丸」にそれぞれ乗船しました。そして、1937年1月を最後に船を下りました。通算乗船期間は4年余り。船の楽団員の中でも長く乗船した一人だそうです。

出帆十分前(桑港)6.8.22この写真のキャプションには、【出帆十分前(桑港)6.8.22】とある。1931年8月22日、桑港はサンフランシスコ港。

お爺ちゃんが残してくれた膨大な数の写真の中でも、「船の楽団」時代の写真は当時の栄華を色濃く写し出す貴重な写真ばかりです。見たことのない古き良きアメリカや香港の景色、豪華客船と大海原、楽団員として他のメンバーと共に堂々とデッキで演奏をするお爺ちゃん。どれをとってもカッコよく、ロマンチックです。華やかな舞台裏では計り知れない努力と苦労があったことでしょう。写真には写っていない苦労話を聞きたいところですが、お爺ちゃんに尋ねたところで「な〜に、食うためさね。」といなされるだけなのでしょうけれど。

昭和六年十二月十六日香港九龍ドックにて春洋丸船尾お爺ちゃん手書きによるキャプションには【昭和六年十二月十六日香港九龍ドックにて春洋丸船尾。右ヨリ二人目鶴ケ谷】とある。

昭和九年一月元旦航海中龍田丸音楽部【昭和九年一月元旦航海中龍田丸音楽部】中央メガネをかけているのがお爺ちゃん。

昭和11年度日本郵船太平洋航路定期表昭和11年度日本郵船太平洋航路定期表

(まだまだ続きます)

参考文献等

日本郵船歴史博物館 企画展「ミナトに響いたJAZZと汽笛ージャズを運んだ楽士たち」パンフレット

東奥日報社 2009年9月2日〜19日連載(全15回)「ジャズを運んだ県人ー鶴ケ谷嘉宏のバンドマン人生ー」

Webサイト ジャズにまつわるはなし 第1章ジャズと歴史にまつわる話

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